日本における金銀糸・平箔の歴史
古来、金銀はあらゆる装飾の中でも最高のものとされてきました。金銀の輝きを身にまといたいという願望は、やがて金銀を繊細な糸にして、織物のうちそとに自在に展開させる金銀糸の創始へとつながっていきます。
ヨーロッパでは紀元前に、薄く展ばし細く切った、切金状の金糸が織物に織り込まれていました。中国ではこれを絹糸に巻きつけて、撚金糸として用いることもあったと思われます。これらが紙と出会い、誕生したのが“箔糸”です。
わが国に遺存する物を挙げれば、大阪・高槻の「阿武山古墳」から出土した織冠、法隆寺献納宝物「忍冬文繍残片」(七世紀)、正倉院御物中の「金糸刺繡入り羅幡」(八世紀)では、撚箔糸が用いられています。また正倉院宝物の綴織(八世紀)のひとつには裁断した箔をそのままの状態で用いる平金糸が織込まれています。
これら数少ない出土品や舶載染織品の例から推測されることは、その文様の図柄から隋朝初頭には箔糸がすでにあったこと、そして織物には平箔糸、刺繡には表裏のない撚箔糸と使い分けられていたということです。
このように金銀糸・平箔の歴史は非常に古い時代に発生しているのですが、その文献はほとんど見当たりません。また同様にわが国において、金銀糸・平箔がいつ頃から製造される様になったかを知る確かな資料もありません。江戸時代初期までは金糸を輸入していた形跡があります。
しかし、室町末期に京都に来任したキリシタン宣教師が当地方産の金襴の祭服を着けミサをしたことや、上京・西陣の町衆が盂蘭盆会で風流踊りを競いあったときの金襴の衣装が見事であったということが文献にあり、この時代から流行しはじめた金襴帯や、金紗、金銀糸多用の縫い、まで輸入で賄い切れたとは考えにくく、国産の金銀糸との併用があったのではと思われます。
その後、幕府の統制のもと箔座がおかれます。素材は本金箔から銀箔・真鍮箔・錫箔等、広がり工夫され、用途に応じ発展していきます。それぞれの箔座はやがて統廃合され金銀座管理下に組み込まれ、金銀箔の製造は江戸・京都の箔座しか認められなくなりました。
“金糸屋”の名称の初例は江戸時代になります。超勝院(上京区大宮鞍馬口下る東入)にある“金糸屋善兵衛”の石碑(延享二年・1745年)です。さらに北野天満宮にある石灯篭(天保十二年・1831年)に“箔屋甚兵衛” とあります。
明治時代になると新政府により営業の自由化が認められ、多くの別家、分家があり、今日に続く業者が輩出されました。
(参考資料 京都金銀糸平箔史)
超勝院の墓碑は現在保育園内にあるため許可無く入ることはできません。

北野天満宮の箔屋甚兵衛の石碑は東門(上七軒・五辻通側)から入ったところの、最初の大きな石碑の右側に彫られています。
境内から東門に向かって撮影しています。